心が冴える論語

孔子 論語 解説 論語伝来
 論語解説
 学而篇 1・2
 為政篇 1・2・3 
 ハチイツ篇 1・2・3
 里仁篇 1・2・3
 公冶長篇 1・2・3
 雍也篇 1・2・3
 述而篇 1・2・3・4
 泰伯篇 1・2・3
 子罕篇 1・2・3
 郷党篇 1・2・3
 先進篇 1・2・3
 顔淵篇 1・2・3
 子路篇 1・2・3
 憲問篇 1・2・3・4・5
 衛霊公篇 1・2・3・4・5
 李氏篇 1・2
 陽貨篇 1・2・3
 微子篇 1・2
 子張篇 1・2・3
 尭曰篇
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論語の日本伝来
西暦紀元前六世紀から五世紀にかけての人である孔子の言葉を集めた「論語」が、大陸から朝鮮半島を経て日本に伝へられたのは、「日本書紀」「古事記」によると応神天皇(第十五代){継体天皇(二十六代)とも言われている}の御代のことであったという。

「日本書紀」には、応神天皇15年の秋8月、朔丁卯(ついたちひのとり)の日、百済王が阿直岐(あとき)と言う者を使者として遣わし、良馬2頭を貢った。

また天皇が阿直岐に、お前に勝る博士(ふみよみひと)がいるかと問われると、「王仁(わに)という者あり、これ優れたり」と答えたので、百済に遣わし王仁を召された。

翌16年春2月、王仁が来朝して、諸々の典籍(ふみ)を王仁に習う、と書かれている。

「古事記」には「論語」十巻と「千字文(せんじもん)」一巻を天皇に献上したと書いてある。


[飛鳥・奈良・平安時代]

「論語」の思想的影響は、飛鳥・奈良朝ではまず中国を模範として儒教的国家体制、すなわち律令国家を作り上げようとする天皇をはじめ宮廷貴族の間に広がった。

約一世紀後、聖徳太子は有名な憲法十七条を制定したが、第一条の「和をもって貴しとなす」が、有子の「礼はこれ和を用いるを貴し為す」(学而編第十二章)をはじめ「論語」にもとずいたものが5項目にのぼっている。

さらに一世紀遅れて大宝律令、それに次いで養老律令の法制が発令される。これらの法制に見られる学制の規定の中に、大学学生は五経のうちの一経または、二経を専門とするほか、必ず「孝経」「論語」を修めねばならぬとされていた。

[南北朝・室町時代]

鎌倉および南北朝時代に到りては、鈔写または刊刻も次第に行われ、鎌倉からさらに戦乱の南北朝・室町時代を経て写本から刊本の出現によって「論語」が加速度的に広い範囲に普及されていった。
南北朝が対立していた正平19年(1364年)に正平版「論語集解」が刊行された。これは最初の木版本の出現として、日本の出版史上の画期的事件である。木版印刷術がまず、「論語」から手がつけられたと言うことは、「論語」という本が、あの乱離の時代に、心ある人々からどんなに強く求められたかを表している。

[徳川時代]

徳川時代における「論語」普及の原動力となったのは、徳川家康であるが、その手本はすでに戦国時代の武将にあった。大内義隆が、宮中で「論語」を専門にした清原家の宣賢などについて、十数年にわたってその講義を聞いたことがある。

さらに家康の先輩で隣国の名将武田信玄が弟の信繁をして家訓を制定させたが、それには「論語」をはじめ儒教の典籍が引用されている。また、武田信玄は父信虎と不和になり、ついに父を駿河に追放してしまったが、彼はこの不幸の非行を恥じて、終身「論語」を誦しなかったと言う話が伝わっている。

徳川時代、元禄の頃から「論語読みの論語知らず」という諺が出来た。書物の上で論語を理解できているが、実行が少しも伴わない偽学者をそしって、いかに「論語」の存在が一般町人の世界に身近だったかを示す言葉である。
信玄こそ「論語知りの論語読まず」と言って良いほどの「論語」の精神の体得者であった。

有名な家康の遺訓の、
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」  というのは、
「論語の」曽子の言葉の、「士は以って弘毅(こうき)ならざるべからず、任重くして道遠し。仁以って己が任となす、亦おもからずや。死して後已む、亦遠からずや」(秦伯編第七章)にもとずいている。

なぜ日本で「論語」がこれ程好んで読まれたのか?
根本的には、孔子が生まれた春秋末期の社会と、徳川時代の社会とが、かなり類似点を持っていた為ではないだろうか。

孔子は仁を最高の徳として、これの達成を終生の目標としていた。しかし仁徳を備えた仁者になる事は容易ではない。孔子が手近の目標とした人間像は、君子と言われる円満な人格であった。君子とは元来、朝廷につかえて、朝会の席に列する大夫以上の貴族を言う。

この時代の貴族は、「詩経」「書経」を読んで古典を熟知し、また礼儀作法をよく心得た貴族の典型であった。「君子重からざれば則威あらず」(学而篇第八章)と言ったのは、威儀堂々たる貴族の容姿を形容したものである。

この時代の貴族は、戦時には甲冑に身を固め、馬車に乗って、敵と戦って国家を防衛する武士でもあった。彼らは礼・楽・射・御(ぎょ)・書・数の文武六芸(りくげい)に長じていなければならなかった。

孔子の学園は、新興の武士階級に属する子弟を収容し、彼らに君子を理想の人間像として、貴族的な武人の教養を身に着けさせようとしたものだと言える。孔子の弟子の曽子(そうじ)になると、武士の一面を持つ君子の典型を、新興の武士階級を指す「士」におきかえた。曽子の学説がのちの儒教の正統になったのであるから、儒教の中心には古代中国の武士道徳が強く流れている。

徳川家康が「論語」の講義を聞き、部下にも「論語」の読書を奨励したのは、儒教道徳の中に「君子」「士」を理想の人間像とする武士的道徳が内在していてこれが徳川幕府の武士道を形成するのに非常に助けになる事を見抜いたからである。

朱子は「論語」を「大学」「中庸」「孟子」と共に「四書」として「集註」(しつちゅう)を書いたが、この「四書集註」が日本であらゆる階層に広く読まれた。このように、家康の文教政策がよく効果を上げたのは、四書の中心である「論語」の中に、徳川時代の社会によく通ずるものがあったからである。

このようにして、徳川幕府の文教政策として尊ばれた「論語」ではあるが、「論語」に現れる孔子の博大な人間性はこれを読む武士や町人の心に強く訴えるものがあった。徳川時代を通じて「論語」は消化され、日本人の血となり肉となった。長い間日本人の心の中に生きてきた「論語」は、現代の日本人の心の故郷でもある。

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